1988 − 2001

 

 

1988年~ ' 90年

'88年野村師匠から27歳で独立。下北沢、築20年の古びたアパート(6畳、4畳半)に自宅兼事務所を開設。4畳半部分にブロックを積んで板を乗せただけのテーブルを作り、出始めた留守番電話を置いて独立1年目が始まった。独立と言えば聞こえはいいが、全くと言っていいほど仕事が無く、作品を持って連日広告制作会社を訪ねた。初めて「営業」というものをやる。担当の方が優しい言葉をかけてくれるのに仕事はほとんど来なかった。本音とタテマエを勉強する。

 

その後も食うや食わずが続く。1年経った頃から営業の成果が出てきたのか少しづつ仕事が入るようになった。取材の撮影を頂き「これでもか」と言うほど機材を持ち込んでヤル気を見せたが、「簡単な取材撮影でこんなに機材を持ってくるカメラマンは初めてだよ。ははは」と笑われた。その1年後初めての海外ロケ(ハワイ・オワフ島)に出かける。8シーンの撮影で、ロケハン1週間、撮影1週間というバブル時代が残る贅沢なスケジュールだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1991年~ ' 01年

' 91年渋谷に念願のスタジオを開設。「P・W オーズ」と名付ける。小さいながらも自分のスタジオで時間に余裕を持って撮影できた。6月に結婚して翌年長男が生まれるも、まだ生活は困窮していた。下北沢の自宅ではベビーベットが買えずダンボール箱2個をつないで長男を寝かせていたら、上京して来た妻の母が絶句した。'93年手狭になった渋谷のスタジオを横文字職業の聖地だった南青山に移転してグレードアップする。2倍の広さになった。32歳。

 

【グループ展】「木肌プリント」展(東京/檜画廊)' 92年 ・カンナで削り出した木皮に、ポラロイド写真を転写した。

 

35歳を過ぎると仕事も順調に回り始めていた。アシスタントを雇い、ヨーロッパ車のステーションワゴンに乗って、大きなスタジオで外国人モデルを撮影して、大型カメラで何十カットも撮影する仕事を毎月のようにこなした。だが仕事が増えるにつれて西米良が恋しくなった。なぜだか判らなかった。' 97年長女が生まれる。

 

2000年の正月、村のお婆ちゃんに「成人式で孫を撮って欲しい」という依頼がきた。東京から機材を持ち帰り、成人式が開かれる会場横に特設のスタジオを構えてそのお孫さんと、他十数組の記念写真を撮った。東京で撮るモデル撮影とは明らかに空気が違う。カメラの前に立った二十歳の娘さんは顔を赤らめ、脇に付き添う父親の額からは汗が吹き出し、母親は緊張で倒れそうだ。東京に戻って出来上がりの写真を送った。お盆に帰省すると依頼されたお婆ちゃんにお礼を言われた。「ありがとう、ありがとう」と手を合わせて拝まれた。写真を撮って初めて感謝された気がした。

 

2001年8月、どうにもならないくらい村へ帰りたくなっていた。何日も眠れない日が続いた末、「帰るから」と1ヶ月前に家族に言い聞かせて強引に東京を引き上げる。独立して一番の売上を記録した年でもあった。共に撮影に携わってきた仲間たちは「気が狂れたか」と呆れた。40歳。

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